柳町で商う人々Persons of YANAGIMACHI
- 仕事ってなんだ?
- 01 ものづくりカフェ こねくり家
- 02 ハレノヒ柳町フォトスタジオ / 笠原 徹
- 03 和紅茶専門店 紅葉 / 岡本 啓
- 04 鍋島緞通 織ものがたり / 木下 真
- 05 megumi / 森 恵美
- 06 minade / 江口 昌紀
- 07 よそほひ処 二葉 / 荒川 国子
- 08 ステンドグラス工房 グラスパレット / 西村 尚子
- 09 くみひも屋 絆 / 池田 ノリ
- 10 ブルームーン / 江副 由美子
未来の「まちの写真館」の
あり方とは?
コミュニケーションツール
としての写真の可能性。
カメラマンが「先生」と「技術屋」の時代は終わった。
写真ってなんだろう?と考えてみる。
― それはやっぱり機材がデジタルになったから可能になったわけですよね。フィルムは技術が無いと撮れなかったけど、デジタルになったことで先生から同じ目線に。
ええ、おっしゃる通りですよね。昔は「技術屋」だったからこそ、そこにセンスは必ずしも必要なかったんだけど、デジタルになって多分本質の部分が大事になってきた。要は、写真館のカメラマンに何ができるのかっていうことを考えた人じゃないと、相手に伝わらない。何をやって欲しいのかを意識することで、より人に伝わりやすかったり、必要性を感じてくれたりするようになるんだなと。そういう「本質を考える」教育は日本はまだまだ少なくて、そういう部分をこれから鍛えていかないと、どんどん薄っぺらいものになっていきますよね。生き方自体が曖昧になるというか・・・究極的には、自分は何のために生きているんだろうっていうところに辿り着くわけですけどね。・・・と、話がずれてしまいましたが、今の時代はカメラマンが「どう撮るか」ではなく、お客さんからすると「誰にとってもらうか?」が重要になっていると思います。
― 特にWebの無名性が出てきた反動として「誰が」という主観、なんていう名前の人に撮ってもらいたい、とかこういう考え方の人に撮ってもらいたいとか。
そう、結局同じなんですけど、人と人とのコミュニケーションで生まれてくるものなので、相手が誰なのかはすごく重要で、その流れで撮るのが自分じゃなくても家族でいいんじゃないかというとこに辿り着くんです。自分には昔から「俺が俺が」っていう考え方は基本的になくて、自分のアウトプットや表現をしたいというとこから始めてないので、意外と常識を外していける。カメラマンが撮ってないのに、なんでお金を払うのかって言う人もいるんですけど、「シャッターは自分で押したのでお金要らないですよね」って言われたら、多分1時間くらい話しますね(笑)。シャッターを押す行為に、お金が発生するんだったら、多分この業界は既に無いですよね。場所とタイミングと状況、つまり空間を作り出すっていうところで、自分の仕事は終わってると思うので。
― そういう「表現」のツールとして、写真の他にも、例えばプロダクトデザインとか、飲み物を提供するとか、色々とコミュニケーションの方法があると思うんですが、その中での「写真」の特徴というんでしょうか、媒体としてどう有効なんですかね。
そうだなぁ…お客さんが気付いていない価値を提供して、気付かせてあげられることが僕らの仕事だし、役割だと思うんですよね。一部のウェディング写真屋さんとかってその場で楽しく、きゃぴきゃぴしてれば良いってことも多いんですけど、そういう刹那的な写真って10年、20年経ってみると「ああ、こんな写真に10万も払ってしまった」となってしまって、僕らも続いていかないんですよ。いつもオモチャに例えるんですけど、子供が1週間で買ってあげたオモチャに飽きて、新しいオモチャを欲しがっても、親はもう買わないよってなるわけですよね。ほんとは売る側が使い方まで含めて、一時的な楽しみなのか、長く価値のあるもなのかを教えてあげないといけないんですよね。自分たちの短期的な目的・収益のみで、目の前のお客さんが楽しんでいるかだけで価値を判断するのは、非常に「遊園地的」な考え方だな、と。僕が尊敬する別の写真館の社長が「写真館のライバルはディズニーランドだ」とおっしゃってたんですけど、僕は写真の価値ってそれ以上のもので、自分たちの目の前にはない数十年後の時間の先を考えられることが、写真という「特異な商品」の強みなんじゃないかと思うんです。表面的なものじゃなくて変化していく、見る人によって価値や機能が変わっていったりするところなんですよね。例えば、強制収容所で撮られた写真は世間的に見たらすごく悲しい写真だけど、収容されていた人の家族からしてみたら唯一の形見だったりする。それに時間軸がプラスされたら、歴史的な価値が変化する、という可能性もありますし。
― 第一次・第二次世界大戦のプロパガンダポスターを集めた『戦争の表象』をいう本があって、ヒトラーとかが写真やデザインのイメージを使って民衆の扇動をしていたのも同じですよね。それが今は貴重な歴史的史料となってて、時間軸による価値の変化というのは面白いですよね。
そういうリアリティーのある価値を持ち続けるものとして、写真は面白いと思っていて、映像や文章は編集が入ることで作為的なストーリーが作られちゃったりするけど、写真は割と人によって全く違うように受け止められる。もちろん写真もそうやって切り取り方で作為を入れることはできるんですけど、僕自身は基本として二度と見たくない写真にはしないというところを、気を付けているかな。それもやっぱり「自分のやっている仕事ってなんだろう」「写真ってなんだろう」って突き詰めていったらそこまで辿り着いて、そこでやっと僕は「技術」を学ぶ段階に来ているんですよね。技術者からしたら、僕は多分まだまだ未熟な写真を撮っていて、そこを分かった上で、今から必要な表現とか技術とか光の使い方とかを考えていきたいなと。僕、そういうの表面から入らないので。ここを見せるんだから、ここに光を当てるよねっていう技術の必要性はこれから出てくると思うんです。ただそれは「光至上主義」ではなく、あくまでも技術をどこまで入れ込むのかという「さじ加減」なんですよね。例えば、光の入れ方でいえば、単純に自然の光のままの方がいい場合もあるし、もっとお客さんに分かりやすいキャッチーで広告的な感じを出した方がいいときもあるし。それをやり過ぎちゃうと「どうだ~かっこいいだろ~」っていう写真になっちゃう。どこにどれだけ技術を使うかっていうのが、こっちの味付けになるんですよね。他の職人さんも色んなことが出来るはずなんですよ。だけどわざわざ自慢げにこの技を入れなくてもいいよねっていうのは、他の職人さんは絶対持っているはずで、要は愛情をどこに置くのかだと思うんですよね。「すごいでしょ」って自己愛なのか、相手のことを一番に考えているのか、の違いだと思うんです。相手のことを考えて、その対価として自分がお金を得ていく、そのプロセスを考えていくのが事業というものなのかな、と思ってます。