柳町で商う人々Persons of YANAGIMACHI
- 仕事ってなんだ?
- 01 ものづくりカフェ こねくり家
- 02 ハレノヒ柳町フォトスタジオ / 笠原 徹
- 03 和紅茶専門店 紅葉 / 岡本 啓
- 04 鍋島緞通 織ものがたり / 木下 真
- 05 megumi / 森 恵美
- 06 minade / 江口 昌紀
- 07 よそほひ処 二葉 / 荒川 国子
- 08 ステンドグラス工房 グラスパレット / 西村 尚子
- 09 くみひも屋 絆 / 池田 ノリ
- 10 ブルームーン / 江副 由美子
未来の「まちの写真館」の
あり方とは?
コミュニケーションツール
としての写真の可能性。
写真を撮るきっかけはラグビープレイヤーとしての諦め。
そして、そこから生まれた写真に対しての3つの軸。
― まずは笠原さんご自身のヒストリーからお伺いできれば。そもそも「カメラマン」という職業はどういう経緯で選ばれたんですか?
僕、高校時代からラグビーしてたんですよ。小学校5年生のとき、当時流行っていた『スクール☆ウォーズ』をみて先生がラグビーボールを買ってくれたんです。今でこそラグビー人気が出てきてますけど、僕らの世代は『スクール☆ウォーズ』に影響されてラグビー始めたって人が多かったんです。それで高校ではひたすらラグビーしてたんですが、卒業前に進路を考えたときに、ラグビーを続けたかったけど体が小っちゃいんで、プレーヤーでは無理だったんです。だったらラグビーを伝える手段として写真を撮ろう、と。今でもそうなんですけど、写真は自分にとってコミュニケーションの手段なんですよね。だから結構目的は明確で、自分がすごく素晴らしいスポーツだと思うラグビーを伝える役として、ナンバーというスポーツ雑誌の表紙をラグビーの写真で飾って、それを見た子供たちが「かっこいいなぁ」って思って、ラグビーを始めようって思ってもらえるようにしようと。だから最初は、高校時代に「写ルンです」で部活仲間とか友達を撮ってましたね。
― じゃあ、もうその頃から既にカメラマンになろうと決めていらしたんですね!
うん、なんかね、ちょうど僕らの年代、特にうちの高校は自由な校風だったので、サラリーマンに普通になろうっていう人が周りにあんまりいなかった。ほんと自由だったんですよね。だからデザイン系・造形系の道に行く人が多くて、俺も憧れていたんでしょうね。別に、元々クリエイティブな感覚なんて持ち合わせてなかったんですけど、写真ってなんか出来そうじゃないですか。「伝える」っていう明確な目標もあったのでその道具として写真をやろうと。まぁもっと遡れば中学生くらいに撮った写真が褒められた記憶もあったし、高校の時のラグビーの試合を撮ってくれた、名もない写真屋さんのスポーツ写真ってあるじゃないですか。あの買わないといけないやつ。あれも自分で買って部屋に飾ってあったりして、どっかで写真を撮って渡す喜びと、もらった人間の喜びを、子供の頃から何となく気付いていたのかもしれないです。それもあって、何かリンクしたんでしょうね、直感で。それで高校を卒業して予備校生だった頃、バイトしてカメラを買ったんです。それがこれ、Nikon New FM2っていうマニュアルのカメラなんですけど、当時12~13万だったかな。まぁ学生でその金額は結構な投資でしたね。
― そのカメラで最初は何を撮っていたんですか?
完全に人ばっかりです。一緒にキャンプしに行った友達を撮ったりとか。最初は遊びというか、ただ楽しいだけですよね。このカメラで撮ってプリントして誰かにあげるっていう・・・。多分ね、普通に喜んでもらうことが好きなんですよ。自分の世界観を出して「すげえ」って思われるのはあんまり好きじゃない。気持ち悪いっていうか、むず痒いというか。単純に、自分が生き生きとした写真を誰かが撮ってくれて、渡されたら嬉しいじゃないですか。今でも思うんですけど、写真があるとコミュニケーションが取りやすいし、人と話す理由になるんですよね。僕、大学で大阪に行ってから人と話せるようになって、言葉の使い方を意識して話すようになったのも、ほんとここ数年なんです。結構コミュニケーションは上手そうで下手なんですよ・・・。家系が皮肉屋で、昔からきつい言い方しちゃうんですよね。だから「見た目は優しそうなのに、実はあの人冷たい」っていうのが高校の時の女子の評価(笑)。その横で態度悪い荒くれ者の同級生が、実は優しいっていうことで人気があったんですよ!絶対俺の方が社会にいいことしてっけどなって(笑)。まぁだから今になって考えると僕は「①僕と誰か」「②誰かと誰か」そして「③誰かと時間」っていう3つの軸でいま写真を見てるんです。具体的に言うと、①撮るときも僕がお客さんとコミュニケーションを取れる、②撮った後も友人や家族で「この時はこうだったね」とかそういうコミュニケーションが取れる、そして③20~30年後経ったときにその場だけじゃなくて、過去の時代のこととか亡くなった人の話だったりとかを写真を通してコミュニケーションすることができるんです。そういうのが非常に魅力的だと思っていて、それが提供できるからこそ「写真館」をやっているんですよね。