柳町で商う人々Persons of YANAGIMACHI
- 仕事ってなんだ?
- 01 ものづくりカフェ こねくり家
- 02 ハレノヒ柳町フォトスタジオ / 笠原 徹
- 03 和紅茶専門店 紅葉 / 岡本 啓
- 04 鍋島緞通 織ものがたり / 木下 真
- 05 megumi / 森 恵美
- 06 minade / 江口 昌紀
- 07 よそほひ処 二葉 / 荒川 国子
- 08 ステンドグラス工房 グラスパレット / 西村 尚子
- 09 くみひも屋 絆 / 池田 ノリ
- 10 ブルームーン / 江副 由美子
東京の巨大案件を、
佐賀でバリバリとこなし、
IT×◯◯で地域循環の
コンセプトモデルをつくる!
友納社長がIBMでつちかった経験とノウハウ。
それを地域や人に還元していく。
― 佐賀で高校を卒業して、大学から東京に行かれるときは、どんな心境だったんですか?ずっと東京で働いてこられた中で、佐賀に対しての気持ちは?
昔のことはすぐ忘れるから(笑)。まぁでもやっぱり大学から東京に行ってIBMに入って、佐賀に戻って仕事をするっていうイメージは全くなかったですね、当時は。地方を意識するようになったきっかけは「オフショア(業務の一部を海外事業者に外注すること)」で、IBMから独立後、日産自動車さんを担当していた時に、ゴーンさんの命令でIT投資の何割かはインドでやるっていう時期のサポートで入っていて、我々がインドの会社とやり取りするブリッジの役割を果たしていたんですよね。あるいは中国でもやってたりもしてましたけど、まぁやっぱり大変なんですよね。言葉の壁もあるし、日本人的なアバウトにお願いしてどうにかなるってところがないわけですから…。明確にきっちり定義すればちゃんと出来てきますけど。そこから日本の地方もあるねっていうところと、親とかが年取ってくると心配だったりもして、こっちに帰ってくる頻度が増えた時期が来たんです。それが40歳ちょっと過ぎたくらいですかね。オフショア開発をしながら、自分の故郷ってなんだろうって考えるタイミングだった。在宅勤務など、昔から場所に関係なく仕事をしていましたし、東京のEWMでやってた仕事でも、例えば愛知万博のプロジェクトではお客さんは名古屋、我々は東京っていうことで、お客さんと離れていても何の問題もなく仕事ができるのがITの会社なんで、佐賀でもできるんじゃないかって。ネットワークさえ使えば、どこでも仕事ができるといいながら、なかなかやっていないんですよね。一番やりやすいIT業界である我々からやってみようかっていうことで、佐賀に拠点を作ろうと模索していたタイミングで企業誘致の声がかかったんです。
― EWMという会社名の由来は確か「Enterprise Web Management」っていうIBM時代の部署の名前で、長野オリンピックのプロジェクトをきっかけに出来たんですよね?
ええ、長野オリンピックの公式ウェブサイトの開発リーダーを当時やっていたんです。長野オリンピックは1998年開催でしたけれども、その4年くらい前から準備をして作った長野オリンピックのウェブサイトは、ギネスブックの「単一イベントでのアクセス件数」と「一分間あたりのアクセス件数」で当時レコードを作って、そういう意味では大成功した大きなプロジェクトだった。98年と言えば、なかなかネットが今みたいにメディアとして、情報の重要度・信頼性がまだまだだった時代なんですけれども、オリンピックでの成功で世の中のインフラとして認められたんです。その後、EWMという組織をIBMの中で作って、長野で成功したインターネットでの成功モデルを使って、IBM自身がネット活用にもっと投資しようとして出来た組織がEWMなんです。そこでIBM全体でのウェブ事業の管理をやっていて、私はその流れをそのままもらって、一般のお客様にもネットの有効活用を広めようと。だからあくまでも活用なんですよね。ウェブを活用してIBMも新しい会社に変わったわけですけれども、それと同じように他のお客様にもウェブサイトが「旗印」となって、そこから色んな組織の改革だったりが始まっていくきっかけを作るような取り組みをする会社をやろう、というのがEWMのスタートです。それが2001年ですね。
― ネットやデジタル環境の変化ってすごく大きいと思うんですが、その頃のお仕事の内容と今の内容はだいぶ変わってきたんじゃないですか。
ええ、EWMを最初作った頃は、どちらかというとコンサル的な要素が多かったんですよね、東京側で。そういう組織運営みたいなところも含め、コンサルティングから企画・デザインをするところが主体だったんですけど、そこからだんだんと制作の方にシフトして行って…。まぁニアショアを広げていこうというタイミングから制作にフォーカスしていったんですね、コンサルは佐賀からだとなかなか難しいですからね。人材もいないわけですから。だからまずは佐賀でやれる仕事をどう作っていくかというところですね。佐賀でやるっていうことを前提に考えた時に、そこに集まってくる若者たちのスキルを考えると「ものづくり」的な制作工程のところから入っていくということになったわけです。昔は上流工程を中心にやっていたんですけど、大きくシフトしたんですね。まずは下の方をやりながら、最近は佐賀のメンバーも東京案件の提案にも参加しているので、下流から徐々に上流工程にも範囲を広げてきています。
― EWMさんのホームページを拝見して、すごくちゃんとした会社だなというか、こつこつ真面目にされてそうなホームページだなぁという印象を受けたんですが、いま人材が育ってきていて拠点ができて、上流工程もできるようになってきたその先に据えられている目標とかありますか?
お客様にITを提供するというニアショアと、「こねくり家」だったり「スポーツ×IT」だったり「自然エネルギーの活用」だったりと、事業者として2本立てでやっていて、ビジネスとしてはニアショアがまだまだ割合としては大きいけど、「IT×何か」事業も車の両輪にしていきたいんですよね。南会津町もそうなんですけど、我々が拠点を作ったことで行政の人も含め、一緒に色んな企画イベントを考えていてそれが今動き出しているんですけど、地域とITも絡めてデザインしていく仕事は明確なジャンルがあるわけではなくて、なかなか事業領域として定義はしにくい。今までであれば、外部の専門家や建築家に相談していたのを、EWMに相談すると、ITの仕事をしながら若者が増えて行って、いつの間にか町が元気になるっていうモデルケースを、柳町も含めて増やしていこうということです。やっぱり子供たちがペッパーのプログラミングとかをタブレットとかで一生懸命やっている姿は良いと思っていて、最初のとっかかりはなんでもいいと思っています。ネットゲームを一生懸命やってもいいんですけど、ITを活用してリアルなものと連動して 「地域に貢献した」とか「町の役に立った」みたいな経験をしてほしい。従来型のIT業界ってどうしてもゼネコンと同じで、面白くない大規模開発を小さな会社が下請けでやるわけなんですが、ほんとはもっとITを活用してみんなが幸せになれる領域はまだ沢山あるのに、なかなかそこまでいけていないんですよね。だからそういう経験を子供たちがして、大人になって我々のITの業界に入ってきたときに、新しい活用の仕方を広い観点で捉えてくれて色んな活動をしていくと、町自体も楽しくなると思うし、IT業界で働く若者も楽しくなると思うんですよね。それを彼らに先頭切って実践してもらいたいなって思っているんです。