佐賀県のとある小さなまちの取り組み

柳町について

  1. 01 柳町について
  2. 02 柳町のチーム

柳町で商う人々

  1. 仕事ってなんだ?
  2. 01 ものづくりカフェ こねくり家
  3. 02 ハレノヒ柳町フォトスタジオ / 笠原 徹
  4. 03 和紅茶専門店 紅葉 / 岡本 啓
  5. 04 鍋島緞通 織ものがたり / 木下 真
  6. 05 megumi / 森 恵美
  7. 06 minade / 江口 昌紀
  8. 07 よそほひ処 二葉 / 荒川 国子
  9. 08 ステンドグラス工房 グラスパレット / 西村 尚子
  10. 09 くみひも屋 絆 / 池田 ノリ
  11. 10 ブルームーン / 江副 由美子

建築リノベーションとしての柳町

  1. 01 建築資源活用の柳町においてのポイント
  2. 02 建物 改修前、改修後。リノベーションってなんだ?
  3. 03 OpenAの柳町に対する考え方 / 馬場正尊
  4. 04 OpenA 鈴木みのりによる建築的な森永家・久富家
  5. 05 佐賀市役所の仕掛け / 都市デザイン課 武藤英海
  6. 06 古賀銀行 / 音楽イベント、カフェとしての文化財活用

柳町で商う人々Persons of YANAGIMACHI

  1. 仕事ってなんだ?
  2. 01 ものづくりカフェ こねくり家
  3. 02 ハレノヒ柳町フォトスタジオ / 笠原 徹
  4. 03 和紅茶専門店 紅葉 / 岡本 啓
  5. 04 鍋島緞通 織ものがたり / 木下 真
  6. 05 megumi / 森 恵美
  7. 06 minade / 江口 昌紀
  8. 07 よそほひ処 二葉 / 荒川 国子
  9. 08 ステンドグラス工房 グラスパレット / 西村 尚子
  10. 09 くみひも屋 絆 / 池田 ノリ
  11. 10 ブルームーン / 江副 由美子

未来の「まちの写真館」の
あり方とは?
コミュニケーションツール
としての写真の可能性。

シャッターを切らない写真家。それはアートなのか?
新しい家族コミュニケーションとしての写真。

― そうやって技術を磨いていくことで、これから「表現」としての写真に興味は湧いてくる可能性はあるんですか?

憧れはあります。色んな人の写真展にいって、みんなが「これ、いい写真だ」っていうものに「?」になったりとかもしますが。でも自分は続けていくことによって、いつの間にか自分の写真がそういう「表現」としての写真に変化していくことを望んでいて・・・これね、くだらないと思われるかもしれませんけど、初めて写真家になりたいと思ったのが去年くらいなんですが、きっかけがあって。僕、家族に勝手にお互いを撮らせるっていうのをやっているんです(家族が撮る家族写真)。写真はコミュニケーションの一環なので、僕が撮るのと、家族が撮るのとはやっぱり違って、これもお母さんが子供を撮ってるんですけど、3Dとして家族写真が成立しているんです。僕はシャッターを押してないけど、家族写真で初めて「シャッターを切らない写真家」を目指したいと思うようになったし、これは今からも続けて行こうと思ってます。ここにコミュニケーションの面白さが写ってるんですよね。僕がやるのはセッティングとトリミングだけです。そこに自分の意図をいれるだけで、成り立つと思うんです。「アート」って言い方が良いのかどうか分からないけど、そういう「表現」としての部分とは別に、親子自体が対面してコミュニケーションをとる場というのは少ない。家族がお互いにアクションを起こすというか、相手をじっくり見る時間ってすごく少なくなってきていて、写真はその場でコミュニケーションをさせるための道具として、活用できると思うんです。例えば老夫婦の旦那さんが奥さんをじっくり見て、「こいつ皺ができたなー!」という時間の流れが良かったりとか、あと若い人が、写真を通してコミュニケーションの難しさを体験できたりとか。要は相手は人間で、笑えって言っても笑えなかったり、そこで何かアクションを起こすことで何かが起こったり、相手の状況を考えてあげて言葉をかけてあげると、変わっていったりするわけです。人を撮るのはすげえ緊張するんですよ。相手にも見られていますし、こっちの動揺が伝わったりとか、自分自身について気付くきっかけにもなる。そういうカメラマンしか知らない、コミュニケーションの方法とか原理とかを、コミュニケーション下手とか自閉症の人とかにも応用できたりするし、そんな活動も余裕ができたらしたいなと。あとは写真を撮り合うことで、例えば婚活にも使えるんじゃないかなと思っていて、やっぱり出発点がコミュニケーションなので、道具として写真をどう使えるか、考えるのが自分にとっては刺激的です。

― なんか写真本来の原始的な写真の機能というか、例えばシャッターが下りるまで止まらないといけない、そして現像したらこうなるんだっていう喜びがありますよね。笠原さんはそういう「カメラを使って写真を撮る」っていう根本的な作用を仕事にしているように見えます。

そうですね、それが分かったからこそ出来るというか。アートに関しても、芸術大学いきながら「芸術ってなんだ」って数十年分からない。アートと名がつくものが色々とありすぎて悩むんですけど、ひとつとして誰かの感情を動かすもの、感動を与えるものっていう考え方があるかなと。アートの世界には記録的な部分というか、文化を伝えたり、技術の継承をしたり、何かを伝えることもアートに含まれるけど、結局は「感動」ということに人が惹きつけられるのであれば、そういう要素が必要なのかなと。写真と一言で言われても、モノなのか人なのか、何なのか分からないのと同じですよね。

― 言葉としての難しさも含んでますよね。「芸術」なのか「アート」なのか。僕はアートは二つの定義があると思っていて、一つ目はデザインと区別されるアート。社会的な問題に対して視覚的な解決方法を提示するのがデザインだとするならば、アートはその人の内から出てきたものを表現する、ということなのではないかと。二つ目はいわゆる「アート業界」の流れを汲んだアート。どう表現するのか考えないと評価されず、商業としてのアートの文脈を理解しなければならないもの。村上隆さんなどは、ある意味その文脈に批判的に乗っかる形で、フィギュアを提案されたりしていますよね。そして内から出てきたアートもあるので・・・

内から出てきたものに対して自分なりの気持ちがあって、全てゼロから生まれるものではなく、自分が見てきたものの表現の変更というか再解釈だと思うんですよね。例えば「人が飲む」という行為を違う風に見せること、視覚だけではなくて何次元かからの軸を表現すると、違う側面だったり本質がより伝わったりするとか。そういう意味での表現がアートなのかな、と。だからその本質が見えなかったり、ひねりすぎたり、考えてないアートには「?」になっちゃうんですよね。本質を見つめ続けていないアウトプットは、気持ち悪く感じちゃうんです。カメラマンって、物事を客観的に見る癖がついてるんですよね。シャッターを押すことは誰にでもできるけど、目の前の状況を理解してどの位置から撮ったらどうなるかとか、そういう「準備」が必要なんです。そういう意味ではアートと同じと思っていて、そういう準備が無いモノではなくて、本来アートは頭の中で構築されているはずのものだと思う。なんとなくの感覚のものは定着しないんじゃないかと。もちろん何も考えずに衝動で出来上がるような作品も、積み重ねの中で突き詰めていって表現されているものならば、 問題ないと思います。単純に「バッとやったらかっこいいんじゃね?」っていう安易なものは求心力がないなぁと。